【本当は感動する都市伝説】童謡「赤い靴」の異人さん人さらい・人身売買では無かった?!我が子を思わず抱きしめたくなる切なすぎる事実・・・

小学生

可愛らしい図を連想させる「赤い靴、はいてた女の子~♪」の歌

誰もが一度は耳にした事があるのではないでしょうか?

無邪気で可愛らしい歌詞と、どこか哀愁を感じるメロディーが耳と心に残る名曲ですよね♪

この歌は「異人さんに連れられていっちゃった♪」という歌詞のせいか「人さらい」「人身売買」として、都市伝説として語られる事があるようです。

都市伝説大好きな娘からその話を聞き、気になって情報を調べてみました。

すると「赤い靴を履いていた女の子」は実際にいた、ある女の子とそのお母さんのエピソードである事が分かりました。

ここから語る物語は、明治の静岡でひっそりと暮らす、ある母子家庭の愛しかった日々と、その母子の悲しすぎる結末の物語。

興味がある方は、是非最後までご覧ください。

女の子の正体は「きみちゃん」という実在する女の子

「赤い靴はいてた女の子」この女の子の正体は「きみちゃん」という実在する女の子です。

異人さん外人さんに連れていかれたというエピソードからなのか、居留地(横浜)の近くの公園に銅像が建てられています。

きみちゃんは横浜居留地から船に乗り、異人さんとともに異国に渡ってしまったのだろうか・・・・? そういった真相については、のちほど紹介したいと思います★

きみちゃんのプロフィールについて軽く紹介しておきます。

フルネームは「岩崎きみ」さん、お誕生日は、明治35年7月生まれ、時代に生まれた静岡県出身の女の子という事が分かりました(^^♪  アーバンライフ東京さんのサイトにて情報の掲載がありました♪

明治時代当時はきっと珍しかったであろう、立派な赤い靴がとてもチャーミングですね。

「赤い靴履いてた女の子」こと「きみちゃん」は、童謡の主人公として有名なので、銅像も日本中に7か所作られているようです♪ 北海道・青森・静岡県・神奈川・東京都におられるので気になる方は是非。

どこか「憂い」を帯びた少女の瞳が印象的ですね。 

明治時代の厳しい時代を物語っているのか・・・

ここからは、「きみちゃん」とそのお母さん「かよさん」が生きてきた僅か数年の物語。

明治時代に存在したある親子の切ない結末を紹介していきます。

「赤い靴はいてた女の子」は母子家庭だった?

調べていくと驚いた事に、赤い靴はいてた女の子こと、きみちゃんは何かしらの事情でお父さんが居ませんでした。(もともと未婚で生んだという情報があります。)

きみちゃんの家は当時珍しい「母子家庭」だったのです。

当時、母子だけの家庭というのは珍しく、そういった事情のある子どもは偏見と差別の厳しい目で見られてしまう時代でした。

明治時代当時の各家庭は父親=家長が家を仕切っているのが一般的。父親が居ない母子家庭の子どもは「不完全な家の子ども」とみなされ、冷たい視線を浴びる事も少なくなかったといいます。

明治時代当時は「母子手当」や母子家庭の医療保障制度など、母子家庭を助ける制度は皆無だったため、「経済的な困難」が2人を追い詰めていました。

援助をしてくれる家族もおらず、かよさんは貧困のなか、たった独りで子供を育てる事になったのです。

当時の女性の仕事は、農業や(静岡県なので)お茶の製造・繊維工場の作業員などがありましたが、どれも「勤務時間は12時間~16時間労働」「過酷な肉体労働」「低賃金」という過酷労働。

1人で小さな子供を育てる女性ができる仕事はなかなか無く、推測ですがかよさんは生まれたばかりのきみちゃんを背負って工場で作業をし、夜中は内職で小銭を稼いで、きみちゃんを育てました。

綱渡りのような日々を抜け出すためには「安定した仕事」と「偏見の目にさらされない、安全な土地」が必要でした。

かよさんは、知人の伝手で当時日本で栄えていた都市、北海道の函館に移住を決意。

当時の函館は移住者が多く、キリスト教、異国の交流・国際貿易が盛んで、活気がある都市でした。

かよさんは、3歳になるきみちゃんを連れて、仕事を求めて函館に移住したのでした。

「赤い靴はいてた女の子」母子で「函館」へ移住

北海道に渡り、新しい生活を始めたきみちゃん親子。

かよさんも無事仕事を見つけ「函館日 日新聞社社」で働く事になりました。

明治時代の女性の職業といえば「女工」や「製造業」といった仕事しかなかったと言う事でしたが、現代でいう「OL」の仕事が函館ではあったなんて、当時の函館は「ハイカラ」な社会が回っていたようですね。

保育園が無かったので、お母さんが働いている間、きみちゃんは知人に預けられたり、お母さんといっしょに出勤し、会社で静かに過ごしました。

子育ても仕事も、懸命にこなすかよさんに惹かれたのは、ある人物。

「鈴木志郎さん」という新聞記者の青年でした。

かよさんと鈴木さんはお互いに惹かれ会い、2人は結婚。

きみちゃんに「あたらしいお父さん」が出来たのでした。

「赤い靴はいてた女の子」母の結婚・新しい家族の生活

新しいお父さんこと、鈴木志郎さんはきみちゃんをとても可愛ってくれました。

働き詰めだったかよさんも、鈴木さんが生活を支えてくれた事で、母子の時間をしっかりと持つことができました。

初めての「お父さんとお母さんが傍にいる生活」は、きっときみちゃんにとって安心感と幸せに包まれたものだったでしょうが、それは「束の間の幸せ」に終わるのでした。

「赤い靴はいてた女の子」家族で留寿都に移住

鈴木さん(きみちゃんのお父さん)の職業は新聞記者でしたが、この時代のこの収入は不安定で家族3人を養うのは難しく、当時の生活はギリギリでした。

決して豊かでない生活をしていた夫婦は、将来のためにある決断をしました。

国が当時が開拓都市の計画をしていた土地、北海道留寿都村に移住し、農場を経営しようと思い立ったのです。

当時国は、異国人からの侵略を恐れ、未開拓地だった留寿都村の人口を増やし、農業や施設が多い豊かな土地にしていこう!(防衛を兼ねる) つまり「町おこし」の計画をたてていました。

そこに移住する者は、土地は国から無料で提供される、(農場)起業ををするための補助金が与えられる、税金も数年免除される、という特典が与えられ、それは決して悪くない話、むしろ生活を建て直す最大のチャンスのように思えたのです。

小さな子供を連れて、何もない未開拓地へ移住という選択は「掛け」のようなものでしたが

鈴木さんとかよさんは、掛けをしてでも、きみちゃんに幸せな生活を送らせてあげたいと考えたのでした。

しかし、その先には思わぬ悲劇が訪れていたのです。

「赤い靴履いてた女の子」両親が下した苦渋の決断。

家族三人・留寿都村に移住したものの、予想外の事実が発覚しました。

これは国も想定外だったと言われていますが、当時の北海道留寿都村の極寒の気温はマイナス40℃が記録されるほどの極寒地だったのだとか(ネット調べです)

おまけに家は草ぶきの簡易小屋・・・そんな土地で生活も農業もうまく行くはずもなく、安定した生活の目途が一切立たなくなってしまったのです。

体が弱いきみちゃんを育ていける環境でないのは一目瞭然でした。

3人で函館に戻っても不安定な生活が変わるわけもではなく、どうしたらいいか・・・

途方に暮れていた中で、かよさん夫婦の耳にある情報が飛び込んでいました。

当時函館ではキリスト教が広まっており、宣教師をしてるアメリカ人のご夫婦が養子を迎えようとしていたのです。

施しの活動をしていた夫婦は貧困家庭の子どもを養子に迎えようと考えており、その白羽の矢が、きみちゃんに当たったのでした。

新拠点で生活を建て直すという未来設計が破綻した両親にとって、その話はまさに「渡りに船」と言えました。

きみちゃんはアメリカ人夫婦に引き取られる事になったのです。

かよさんと鈴木さんは、裕福な宣教師夫妻に養育される方が、きみちゃんにとって一番最良の選択であると考えました。

永遠の別れ

けっして、生活が大変になったから、きみちゃんを手放したわけではなくきみちゃんが一番幸せに生活できる方法を考えての選択でした。

とはいえ、当時まだ3歳のきみちゃんに、そういった事情を受け止めるのは酷だったでしょう・・・

かよさんはきみちゃんには何も告げず「元気でね」とだけ言ってこの話を持ってきてくれた知人の手に、きみちゃんを託したでした・・・

「赤い靴はいてた女の子」異人さんのもとに行ったきみちゃんの生活

「ここがきみちゃんの新しい家ですよ。」

おばさん(知人)に手を黙って引かれていたきみちゃんは思わず目を見張りました。

きみちゃんが連れていかれた先は、函館のある西洋風のお屋敷でした。

きみちゃんの新しい両親となった宣教師・ヒュエット夫婦の暮らしは、母国の教会組織によって生活と給与が保証されていた為とても裕福なものでした。

子供がいなかった夫婦にとってきみちゃんは「待望の娘」

きみちゃんは宝物が降ってきたかのように、夫婦から手厚く歓迎され、きみちゃんの暮らしは何不自由ないものになりました。

新しい家には、当時高価だったピアノや洋書が沢山ありました。清潔な西洋ものの服と靴も揃っていました。

きみちゃんは新しい両親の愛情を一心に受け、キリスト教に基づいた教育を受ける事も出来ました。

その様子は、周囲の人から見ても「実の子以上に慈しんで可愛がってもらっていた」と思うほどだったそうです。

きみちゃんの履いていた、西洋風の「赤い靴」は養父母がその時履かせてくれた「幸せな愛情の象徴」だったのですね♪

そこで3年暮らしたのち、きみちゃんの養父母はアメリカから「帰国命令」を受けるのですが

きみちゃんにある悲劇が訪れるのです。

「赤い靴はいてた女の子」異人さんに連れていかれた訳では無かった?!

ヒュエット夫妻とともにアメリカに帰国するはずだったきみちゃんは、船での長旅に堪えられるか確認するため出国検査を受ける事になりました。

しかし、そこで、きみちゃんが結核に罹っていた事が分かったのです。

生まれつき体が弱かったうえ飢えや環境の変化を繰り返していた幼少期が、きみちゃんの身体を蝕んでいたのかもしません。

当時、結核は不治の病とされており結核を抱えてアメリカに渡るのは「病原菌を海外に持ち込む危ない行為」きみちゃんはアメリカへの船には乗れませんでした。

きみちゃんは、日本の孤児院で療養する事になったのです。

仕事の契約の関係で、きみちゃんと一緒に日本には残れなかった養父母。

それでも「愛する娘の病気が治ったらアメリカに呼び寄せよう」と父母は決意。

きみちゃんと約束を交わし、お別れをしたのでした。

「赤い靴はいてた女の子」たった9歳で終わった生涯

キリスト教布教者の夫婦は。きみちゃんを信用して預けられるキリスト教の孤児院「長坂孤女院」にきみちゃんを託しました。

きみちゃんは、そこで療養生活を送る事になったのです。

ヒュエット夫妻は、アメリカに帰国してからも、きみちゃんに手紙を書いたり、きみちゃんに少しでも手厚い御加護をと、施設に送金をし続けました。

それから3年後。療養のかいなく、きみちゃんは僅か9歳で息を引き取りました。

現在、きみちゃんは港区六本木にある鳥居坂教会の共同墓地で静かに眠っています。

まとめ

養父母も、生みの親であるかよさんの再会も果たすことなく、きみちゃんは隔離されたまま寂しい最期を迎えました。

とても切ないお話かもしれませんが、きみちゃんの話は決して可哀想という訳ではなく、人より短い人生だったけれど、人より多くの人に最後まで愛されていた人生を歩んだのだと、私は考えます。

きみちゃん

きみちゃんの生みの母「かよさん」や新しいお父さん「鈴木さん」、迎え入れてくれた宣教師の養両親、孤児院の看護師さんなど、たくさんの「親」から「自分の娘」としての愛情を貰ったきみちゃんはきっと安らかに天国に旅立てたと言えるでしょう。

この切なくも温かい真実を、一人でも多くの人に知ってもらえたら嬉しいです。

▼ 詳しく知りたい方は、こちらの公式記録も併せてご覧ください!
麻布十番商店街:きみちゃんの真実
山下公園:赤い靴をはいた女の子像について

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